短編小説1

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雨の使い

雨の使い

古びた日本家屋に、一人の老女が暮らしていました。名は百合子。

夫を亡くしてからというもの、話し相手は庭の草木と、時折やってくる町内会の人くらいになりました。

百合子は、時おり机に向かって手紙を書きます。
宛先は決まって、「あなたへ」。——そう、亡くなった夫・幸一宛てのものです。

「わたしったら、こんな手紙書いて馬鹿ね」

書き終えると決まってそうつぶやき、そっと引き出しの奥にしまうのでした。
出す宛もなければ、届ける術もない。けれど書くことで、ほんの少しだけ心がほどける気がしたのです。


ある雨の日の午後。
庭の石畳を濡らす音に混じって、ふと軒下に気配を感じました。

見ると、そこには一匹の猫がうずくまっていました。
ぐっしょり濡れ、灰色の毛並みは汚れていて、それでもその目はどこか賢く、懐かしさすら感じさせました。

百合子はそっとタオルを持ち出し、猫を抱きかかえます。
逃げるかと思いましたが、猫はじっと身を任せていました。

餌を用意すると、猫はそれを静かに食べ、また雨の中へと消えていきました。

それからというもの、雨が降るたびに猫はやってきました。
百合子はタオルを用意し、温かいミルクと少しの餌を出す。
それがふたりの“雨の日の儀式”のようになっていきました。


そんなある日。
百合子が机の上に置き忘れた手紙を、猫がくわえて去ってしまいました。

「ちょっと……ダメよ、それは……」

追いかける足もなく、ただ雨ににじんでいく猫の後ろ姿を見送るしかありませんでした。


数日後、百合子のもとに一通の手紙が届きます。
差出人欄には、見慣れた名——「幸一」。

震える手で封を切ると、そこにはこんな言葉が綴られていました。

百合子へ

あなたにこうして手紙を書くのは初めてですね。
こうして、いざ書いてみると、恥ずかしいやら照れくさいやらで不思議な気持ちです。
あなたを残して旅立ってしまったことは、大変申し訳なく思います。
元気に暮らしているでしょうか?
体調を崩したりはしてないでしょうか?
お返事、お待ちしています。

幸一

百合子は思わず、手紙を胸に抱きました。
涙がぽろぽろとこぼれます。

それからも、手紙のやりとりは何度か続きました。

しかし、ある雨の日。
猫はぐったりと痩せこけ、足元もおぼつかない様子で現れました。

「……もう、いいんだよ。ありがとう。もう、いいんだよ」

百合子はそっと抱きしめ、背中を撫でます。
猫は小さく喉を鳴らし、目を閉じました。


その日を境に、百合子はもう手紙を書かなくなりました。
けれど、雨の日にはいつものように、タオルとミルクを用意して、縁側で猫と寄り添いながら雨音を聴くのです。

静かで、でもあたたかい——そんな日々が、静かに続いていきました。

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