第1章:シェアハウス、雨の夜
雨の音が、屋根を叩いていた。
東京・下北沢の住宅街にぽつんと残された、古びた一軒家。昭和の香りを残したその家は、いま、若者たちが集う“おしゃれなシェアハウス”として再生されていた。
その家の一室。畳の部屋にひとり、岩井沙羅(いわい・さら)は正座していた。
裸電球の淡い光が、白い頬に影を落とす。窓の外の雨は止む気配を見せず、屋根裏から微かに雨漏りの音がした。
「……ここ、ほんとに住めるのかな」
ぽつりとつぶやく声は、誰にも届かない。
彼女は舞台女優を志して上京し、小劇団に所属していたが、うまくいかずに辞めた。アルバイトも体調を崩してやめたばかり。友達とも疎遠になり、気づけば、部屋も心も空っぽだった。
部屋には、彼女のスーツケースと、小さな鏡台だけ。
化粧水、くすんだ色の口紅、ピン留め──どれも少し古びていて、生活の匂いが漂っている。スマホは通知を切っていた。誰からも連絡は来ない。
財布には、数千円しか残っていない。
コンビニで買ったおにぎりを手に、レジ袋を断った昨日。現実がじわじわと締めつけてくる。貯金も尽きかけている。頼れる人もいない。
(……実家には帰れない)
母に電話をかけたことがある。けれど、
「もういい加減にしなさい。夢だの芝居だの、親の金でいつまで続けるの?」
そう吐き捨てるように言われ、言葉が詰まった。
父はその会話の向こうで何も言わなかった。
受話器の向こうに沈黙が流れたあと、通話は切れた。それっきり、かかってこない。
──だから、ここにいる。
もう、ここしかない。
背中を押すものも、支えてくれるものもない。ただ、自分の存在をどうにかして保とうと、ぎりぎりで立っている。
そのとき、障子の向こうから声がした。
「よっ、新入り?」
現れたのは、田川翔太。
黒いTシャツにピアス、スマホを片手に構えるような仕草。彼はこのシェアハウスの住人のひとりで、自称「映画監督」。
「面白い被写体いねぇかな〜」といつもカメラを持ち歩いている男だった。
「なんか……病んでる系?」
沙羅は黙ったまま、小さく首を振った。翔太はそれを見て笑った。
「いいじゃん。そういう雰囲気。今ウケるよ。“#無表情女子”とか。“#心を閉ざした女”ってやつ」
彼は勝手に写真を撮りはじめた。
沙羅は反射的に顔をそむけたが、翔太は構わずシャッターを切る。
「何してるんですか」
「撮ってるだけ。SNSでバズるかもよ? この顔、いい感じ。なんか、憂いがあるっていうか……」
その一瞬。
沙羅の心に、ひとつのひびが入った。
(──やっぱり、ここも違うかもしれない)
だが、逃げる場所もなかった。
現実は、もっと冷たく、もっと容赦がなかった。
次の瞬間には、翔太の投稿がX(旧Twitter)に上がっていた。
「新入り。これはバズる。#病みかわ #下北シェアハウス #加工なしでこの顔」
その投稿には、いいねがすぐに付き始めた。
沙羅は、鏡に映った自分の顔を見つめた。
何も言い返せなかった。怒る元気もない。
ただ、誰かに「必要とされている」気がした。
──気がするだけでも、今の沙羅には、十分だった。
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