下北沢シェアハウス

下北沢シェアハウス
  • 下北沢シェアハウス1(怪談) 2025年6月21日
    第1章:シェアハウス、雨の夜 雨の音が、屋根を叩いていた。 東京・下北沢の住宅街にぽつんと残された、古びた一軒家。昭和の香りを残したその家は、いま、若者たちが集う“おしゃれなシェアハウス”として再生されていた。 その家の一室。畳の部屋にひとり、岩井沙羅(いわい・さら)は正座していた。 裸電球の淡い光が、白い頬に影を落とす。窓の外の雨は止む気配を見せず、屋根裏から微かに雨漏りの音がした。 「……ここ、ほんとに住めるのかな」 ぽつりとつぶやく声は、誰にも届かない。 彼女は舞台女優を志して上京し、小劇団に所属していたが、うまくいかずに辞めた。アルバイトも体調を崩してやめたばかり。友達とも疎遠になり、気づけば、部屋も心も空っぽだった。 部屋には、彼女のスーツケースと、小さな鏡台だけ。 化粧水、くすんだ色の口紅、ピン留め──どれも少し古びていて、生活の匂いが漂っている。スマホは通知を切っていた。誰からも連絡は来ない。 財布には、数千円しか残っていない。 コンビニで買ったおにぎりを手に、レジ袋を断った昨日。現実がじわじわと締めつけてくる。貯金も尽きかけている。頼れる人もいない。 (……実家には帰れない) 母に電話をかけたことがある。けれど、 「もういい加減にしなさい。夢だの芝居だの、親の金でいつまで続けるの?」 そう吐き捨てるように言われ、言葉が詰まった。 父はその会話の向こうで何も言わなかった。 受話器の向こうに沈黙が流れたあと、通話は切れた。それっきり、かかってこない。 ──だから、ここにいる。 もう、ここしかない。 背中を押すものも、支えてくれるものもない。ただ、自分の存在をどうにかして保とうと、ぎりぎりで立っている。 そのとき、障子の向こうから声がした。 「よっ、新入り?」 現れたのは、田川翔太。 黒いTシャツにピアス、スマホを片手に構えるような仕草。彼はこのシェアハウスの住人のひとりで、自称「映画監督」。 「面白い被写体いねぇかな〜」といつもカメラを持ち歩いている男だった。 「なんか……病んでる系?」 沙羅は黙ったまま、小さく首を振った。翔太はそれを見て笑った。 「いいじゃん。そういう雰囲気。今ウケるよ。“#無表情女子”とか。“#心を閉ざした女”ってやつ」 彼は勝手に写真を撮りはじめた。 沙羅は反射的に顔をそむけたが、翔太は構わずシャッターを切る。 「何してるんですか」 「撮ってるだけ。SNSでバズるかもよ? この顔、いい感じ。なんか、憂いがあるっていうか……」 その一瞬。 沙羅の心に、ひとつのひびが入った。 (──やっぱり、ここも違うかもしれない) だが、逃げる場所もなかった。 現実は、もっと冷たく、もっと容赦がなかった。 次の瞬間には、翔太の投稿がX(旧Twitter)に上がっていた。 「新入り。これはバズる。#病みかわ #下北シェアハウス #加工なしでこの顔」 その投稿には、いいねがすぐに付き始めた。 沙羅は、鏡に映った自分の顔を見つめた。 何も言い返せなかった。怒る元気もない。 ただ、誰かに「必要とされている」気がした。 ──気がするだけでも、今の沙羅には、十分だった。
  • 下北沢シェアハウス2(怪談) 2025年6月21日
    第2章:拡散される女 翔太が最初に投稿した沙羅の写真には、思った以上の反応があった。 「これ、ガチの病み系?」「無加工でこれはやばい」 そんなコメントが並び、いいねの数は夜のうちに三桁を超えた。 翌朝、翔太が笑って言った。 「お前、やっぱすげーな。拡散されたわ。なんか、リアルで怖いって」 「……嬉しいの?」 「そりゃ嬉しいでしょ。お前も嬉しいだろ?」 嬉しい──のかもしれなかった。 スマホを開くと、自分の顔が加工なしで並んでいた。 目の下のクマ、頬のやつれ、髪のバサつき。 その“弱った自分”に、見知らぬ誰かが「いいね」を押してくれていた。 (必要とされてる……のかな) それは演技でも笑顔でもない。 ただ、弱っているだけの自分。 何もしていないのに、「分かるよ」「こういう子、好き」と言ってもらえることが、どうしようもなく沁みた。 翔太は撮影を日課にするようになった。 「今日はちょっと泣いてみようか」 「目の焦点ずらして、どこ見てるか分かんない感じ」 「そう、無表情。いい、今の顔いい」 部屋の隅で正座する。冷たい床の感触。 涙は出なかったが、感情はときどき麻痺して、顔の筋肉が動かないことがあった。 翔太はそれを「演技力あるじゃん」と言って、写真を切り取っていく。 投稿には、毎回数百のいいねがついた。 あるとき、翔太がコンビニ帰りに言った。 「アカウント、企業からDM来た。次の投稿、案件で五千円だって」 「……それ、私の?」 「いや、俺のだけど。お前出てるし、ちょっと分けるよ。ほら、これ」 500円玉を無造作に差し出された。 受け取ったとき、自分が何になっているのか分からなくなった。 ある日、翔太が新しい服を買ってきた。 「これ着てよ。ちょっと透明感ある感じ出したいから」 白いブラウスと、首元に小さなリボンのついたワンピース。 沙羅は何も言わずに着た。 そうすれば──機嫌が良くなることが分かっていたから。 深夜、ベッドに寝転がりながら、自分の写真にいいねがつくのを見ていた。 誰かが、自分の孤独を見つけてくれている。 誰かが、存在を肯定してくれている。 でも、その「誰か」は翔太ではなかった。 翔太は撮って、編集して、投稿するだけ。 彼の目は、いつもスマホの向こうにある数字だけを見ている。 (でも──) (それでも……) 優しくされると、少しだけ、嬉しい。 それが“お金のため”だと分かっていても──今の自分には、それすらありがたかった。 「今日は泣ける?」 翔太の声が、部屋の奥で響く。 沙羅は鏡の前でまばたきを繰り返しながら、目元をこすった。 涙は出なかったが、目が赤くなれば、それで十分だった。 翔太はシャッターを切りながら、うなずいた。 「いい……その感じ。壊れかけてるの、すごくリアル」 壊れかけてる。 そう言われたとき、胸がチクリとした。 でも、翔太は笑っていた。優しく、機嫌よく──まるで恋人のように、髪に手を伸ばしてきた。 「今日、出前頼もうか。なんか食いたいもんある?」 こんなふうに、普通に話しかけられると、逃げる理由がひとつ減る。 優しさの裏に何があるのか、分かっていても── お腹が空いていて、寒くて、ひとりでいたくない夜には、その優しさがとても大きく思えた。 ある夜、翔太のスマホが通知で鳴り止まなかった。 Xの投稿がバズり、まとめサイトにも転載されたという。 「すげぇな、YouTubeでまとめ出したやついるぞ。収益化されてるわ」 「……その動画、私の顔が……?」 「そうそう。“無感情な女”ってタイトルで、コメントめっちゃついてる」 「……」 沙羅は言葉を失った。 “拡散”という言葉が、皮膚の上を這うような気味悪さを持っていた。 次の日、翔太はメイク用品を買ってきた。 「今度はちょっと血色入れたい。死んでる顔に飽きてきたからさ」 「……」 「ほら、最近の“闇かわ”って、ちょっとだけ色味入れるんだよ。やっぱ数字落としたくないし」 彼は冗談っぽく言ったが、目は本気だった。 沙羅はうなずき、チークを頬にのせた。 それは、ほんの少しの血のように見えた。 その夜、沙羅は投稿された自分の写真を、指先でなぞった。 知らない誰かが「すごく刺さる」「こういう人に惹かれる」とコメントしている。 画面の向こうでは、自分が“偶像”になっていた。 でも── あれはもう、自分じゃない。 目元も、口元も、撮られるたびに“誰かの期待する姿”に変わっていく。 鏡に映る自分と、スマホの画面に映る自分が、別の人間のようだった。 (でも、やめたら私は──誰にも見られなくなる) 沙羅は目を閉じた。 静かに息を吐いて、ひとりきりの部屋で布団に潜り込む。 その夜、夢の中で、自分の顔が鏡の中でゆがんでいくのを見た。 目がひとつ潰れ、口が裂け、肌がノイズのようにざらついていた。 でも、夢の中の誰かはこう言った。 「今のほうが、いいね多いよ」
  • 下北沢シェアハウス3(怪談) 2025年6月21日
    第3章:その優しさは 📲 X 投稿(翔太のアカウントより) 彼女が笑ったのは久しぶり。 光が強すぎて、影ができなかった。 #無感情な女 #闇かわ #Xだけの真実 📸《画像》:白いブラウスを着た沙羅が、微笑のような表情で窓辺に立っている。 目の焦点は合っておらず、頬は青白い。どこか“人形のよう”な雰囲気。 翔太がその写真を投稿したのは深夜2時。 朝になる前に、3万以上のいいねがついていた。 リポストされた数は1万を超え、まとめ系のアカウントがすぐに引用する。 「これマジ?加工じゃなくてガチ?」 「無表情系インフルエンサーって、ここまで来たんか…」 「誰かこの子のこと知ってる?」 「目が……生きてないのがリアルすぎて怖い」 「この子、もう人間じゃない感じがする」 沙羅は、投稿を見ていた。 それが“自分の顔”だとわかっていても、どこか他人事のようだった。 (この笑顔、撮ったとき笑ってたっけ……?) 窓辺で撮影したのは覚えている。 でも、あのとき自分は笑っただろうか。 表情の作り方が、最近よくわからなくなる。 翔太は「いいよ、今の笑顔」と言った。だから、そうなのかもしれない。 その日の夜、翔太が言った。 「案件、月10万いきそう。マジで生活できるな」 「……私、なにかに使われてるのかな」 「なに言ってんの、使われてるとかじゃないって。お前がいるから成立してんだよ」 翔太はそう言って、沙羅の肩を軽く抱いた。 優しかった。たぶん、演技ではない。 でも、その言葉の中に、どうしても“金の匂い”がついて回る。 シャワーを浴びたあと、沙羅は鏡を見た。 水滴で曇ったガラス越しに、いつもと少し違う自分の顔があった。 (あれ……?) 一瞬、目がずれていた気がした。 肌のトーンが白すぎる。歯が少し……いや、違う。 もう一度まばたきをしたら、いつもの顔に戻っていた。 📺 YouTubeまとめ動画(サムネイル) 🔴【閲覧注意】“無感情な女”の正体とは? 「#闇かわ」の裏に隠された狂気【考察】 💬 コメント欄 – 「加工じゃなくてマジで病んでるやつだろ」 – 「最後の写真、なんか顔ゆがんでない?」 – 「うちの鏡で見たら、ちょっと口が動いてた…気がするんだけど」 – 「この人、生きてるの?」 布団の中でその動画を見ていた沙羅は、画面を閉じた。 誰かに“見られている”という感覚が、皮膚の上に乗っているようだった。 (これは私じゃない……でも、私でもある) カーテンの隙間から、誰かが覗いている気がした。 足音も、呼吸も、誰もいないのに“誰かが”いる気がした。 それでも、翔太の声が聞こえると、少しホッとする自分がいた。 優しい声だった。 その優しさが、何でできているのかなんて、今はどうでもよかった。 その夜、沙羅の投稿に、ひとつだけ妙なコメントがついた。 「さわらないで、って言ってるのに」
  • 下北沢シェアハウス4(怪談) 2025年6月21日
    第4章:リポストされた女 Xの通知が鳴ったのは、午前2時ちょうどだった。 沙羅は寝落ちしていたスマホを手に取り、薄暗い部屋で画面を確認した。 通知:あなたに関係する投稿があります。 「彼女を見ましたか?」 (……誰?) URLのついたその投稿を開くと、真っ黒な背景に── 窓辺に立つ自分の写真だけが、ぼんやりと浮かんでいた。 だが、どこか違う。 ──顔が、歪んでいる。 目の位置が少しズレて、頬が裂けかけていた。 それなのに、いいねの数だけは異様に多かった。 「今の方が、映える」 「このフィルター、どうやってるの?」 「ちょっと怖いけど、いい」 「この子、生きてるよね?」 沙羅はスマホを投げ出した。 自分の意思とは無関係に、誰かが自分を“更新している”。 写真も、言葉も、意図も奪われて、ただ「存在の切れ端」だけが拡散されていく。 その日、翔太は新しいカメラを買っていた。 「このレンズすげーんだよ、夜でも目が綺麗に映る」 「……最近、私の目、おかしいって言われてる」 「それがバズってんじゃん。怖いけど、見たくなるんだよな」 そう言って、またレンズを向けてくる。 沙羅は顔をそむけたが、翔太は止めなかった。 「やめてよ」 「なに、今さら。もうここまで来たんだから」 夜。シャワーのあと、鏡を見ると── 鏡の中の自分が、一瞬だけ“笑った”。 表情筋は動かしていない。けれど、鏡の中の顔が微かに口角を上げた。 (……うそ) 慌てて振り返ったが、誰もいない。 息が詰まりそうだった。部屋に戻ると、翔太がまたスマホを見せてきた。 「見てこれ。さっきのやつ、転載されてる。しかもこのアカウント──フォロワー20万」 「#リポストされた女」 「この人の目線、時々カメラじゃなくて“向こう”見てない?」 “向こう”とはどこだ。 誰が、何を見ている? そして、どこから“沙羅”が離れていった? 深夜。再び、Xから通知が届いた。 通知: 「彼女はあなたを見ています」 ※この投稿は24時間後に消えます。 画面の下には、また沙羅の写真。 でも今度は、窓の外。 撮った覚えのない──“外から見た”沙羅の顔。 ガラス越しの笑顔。 その瞳は、確かに、こっちを見ていた。
  • 下北沢シェアハウス5(怪談) 2025年6月21日
    第5章:画面の向こうから 翔太はその夜、眠れなかった。 投稿は今も拡散され続けている。 「リポストされた女」──誰かが勝手に名づけたその呼び名は、いつのまにかトレンド入りし、フォロワーは10万人を超えた。 「無感情な女、ついに動いた」 「あの目線、鏡越しじゃない」 「加工でもCGでもない、これは“写ってる”」 誰かがつくったまとめ動画では、翔太の声すら切り取られ、BGMに加工されていた。 「優しいふりして搾取してる」と書かれたコメントがつくたび、胸がざわついた。 沙羅は、最近ほとんど喋らなかった。 言われたとおりに撮影に応じるが、動きはゆっくりで、まるで生きていないようだった。 (なんだよ……俺、何か悪いことしたか?) 翔太は、モニター越しの沙羅を見つめながら、思った。 そこに写っているのは、もはや“彼女”ではない気がした。 そして──その夜。 配信中のライブカメラに“ノイズ”が走った。 コメント欄がざわつき、通知が止まらなくなった。 「今、後ろ……誰かいた?」 「翔太の顔、変わってね?」 「なんか……見てる。画面越しに見られてる感じ」 「やばい。マジでやばい。目が合った」 翔太は、配信を止めようと手を伸ばした。 だが、その瞬間、カメラが“勝手に”ズームインした。 画面の中──鏡に映った沙羅が、笑っていた。 その笑顔は、これまでのどの投稿より鮮明だった。 そして次の瞬間、コメント欄がこう更新された。 「さわらないで、って言ったのに」 翔太の手が止まった。 鏡の中の沙羅が、カメラ越しにこちらへ、ゆっくりと歩きはじめた。 誰かの部屋の電気が、バチッと消える音がした。 その日を境に、翔太のアカウントはすべて削除された。 だが、匿名の動画投稿者が、次のクリップを公開した。 📲 匿名アカウント「@_リポストの裏側」 投稿 【新着】 彼女の目が、次はあなたを見るかもしれません。 🎥《映像》:暗い部屋の中、鏡に“誰かの顔”がゆっくりと現れる。 💬 コメント欄 – 「笑った……今、絶対笑った」 – 「あれ、俺の部屋の間取りに似てるんだけど……」 – 「彼女、まだ見られたがってる」 画面の向こう側で“誰か”がこちらを見ている。 その目は、沙羅のようで── 沙羅では、ないものだった。
  • 下北沢シェアハウスエピローグ(怪談) 2025年6月21日
    エピローグ 数ヶ月前まで、そこには古びた一軒家が建っていた。 若者向けにリノベーションされたシェアハウス──“だった”場所。 今は新築マンションが立ち、白く光る外壁に、引っ越し業者の出入りが続いている。 工事用フェンスの端に、1枚の張り紙が風に揺れていた。 尋ね人:20代前半の女性。白いブラウス着用。 最終目撃:昨年秋、下北沢周辺。 些細な情報でもご連絡ください。 白黒の写真は薄く滲んでいて、顔の輪郭ははっきりしない。 だが、どこか──誰かに似ていた。 その日、敷地内の配管工事中。 重機の音が止まり、現場に短い沈黙が訪れた。 穴の中から、ひとりの作業員が顔を出す。 土にまみれた手に、何かを握っていた。 彼が、少し驚いたような顔でつぶやいた。 「……おーい、こりゃ──人の骨じゃねえか?」
  • 下北沢シェアハウス 2025年6月21日

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